「ダイヤモンド」
ダイヤは、自分の仕事に固執している、ただ石灰の塊に過ぎない。
もし、私達の大部分がしているように、
仕事に固執することを止めるなら、ダイヤは一体どうなるのか。
大切なのは仕事に着手することではなく、それに固執することである。
そこで私は言いたい。それは、屈服ということを知らぬ人、
ハンマーで徹底的に打ち続ける人だ。
あなたが行き詰まり、完全に打ちのめされたと思う時はいつも、
ダイヤが自分の仕事に固執している、石灰の塊に過ぎないことを思え。
ヴァージニア・コール
5/4 〜止めるのは早すぎる〜
上の「ダイヤモンド」を読みながら、私を主に導き、養い育て、訓練してくださった牧師の言葉を思い出した。「何かを止めることは簡単です。しかし、神様のわざが現われるのは『次の瞬間』かもしれません。あきらめる事はいつでもできます。しかし私たちは、いつも一歩早すぎるのです。」
いつの頃から、私の中にも、このような思いが深く根ざしている。「どんなに苦しくても、もう少しやってみよう。まだゴールが見えなくても、あと一歩前に進もう。収穫はまだ見てなくても、まかれた種にいのちがあるなら、必ず土の中で育っている。明日、芽を出すかもしれない。今あきらめてはいけない。少なくとも、神様の御手が私を止められるまでは。」
「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。」 ヘブル10:36
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4/13 〜基本を大切に〜 先週の続きになってしまうが、大学バスケのシーズンが遂に終わった。先週月曜夜、全米大学No.1を決める決勝戦がもたれ、カンザス大学がメンフィス大学に勝った。大方の予想は「メンフィス有利」だったのだが、カンザスが勝ったのは決してマグレではない。その理由は、「基本に忠実に」プレーしたところにある。
華やかなシュートの陰にリバウンドという地味な仕事がある。シュートが外れた時にボールを必死で奪い取り、自チームの攻撃につなげるという裏方の仕事。しかし「リバウンドを制する者はゲームを制する」という言葉があるほど、最も重要な基本だ。またフリースローがある。シュート時にファウルされたら、誰にも邪魔されずに「自由に、タダで」シュートが打てる。実際、これ以上に地味で見ていてつまらない得点方法はないが、これを確実に一本ずつ決めていけば、試合の最後に必ず違いが出る。特に接戦ではフリースローが鍵を握る。私自身、大事な場面でのフリースローを決める或いは外すことにより、チームの勝敗を左右させたことが何度もあった。
総合力では圧倒的に優位だった、メンフィスが、結局この2つの基本を守れなかったことにより、あっけなく負けてしまった。優れた選手を揃え、爆発的な攻撃力を兼ね備えていても、チーム全体が基本に忠実でなくてはどうにもならない。史上最高の選手マイケル・ジョーダンは言った。「私は他の選手より、特別に身体能力や技術が優れているのではない。常にファンダメンタル(基本・基礎)を大切にし、確実に身につけ、試合で普通に実践しているだけだ。多くの選手はそこ(基本を大切にすること)でつまずく。それだけの違いだ。」
さて、クリスチャンの「基本」は何だろうか。それは名前の中にある。“Christian”とは、“The
one who follows Christ”(キリストに従う者)また“The
one who is like Christ”(キリストに似た者)という意味につながる。故に、私達の心と人生がフォーカスすべき最重要な基本は「イエス・キリストご自身」である。華やかでカッコイイ「ジャンプシュート」や「ダンク」などに惑わされないで、地味でコツコツとした「リバウンド」や「フリースロー」のような基本に忠実に歩むことは、そのチームを勝利の道に導く。私達も、イエス様以外のものに心奪われることなく、「どんな時でもイエス様を信じ、共に歩む」「聖書を味わい、神様の御心を知る」「祈りを通して神様と交わる」ことを通して基本に忠実に歩む時、私達は常勝チームとなる。
神のチームの選手たち。どうか基本を大切に!今もう一度、あなたも私も基本に立ち返ろう。イエス様を信じ、神様を賛美し、御言葉に忠実に従おう。自己満足や自分の栄光のためではなく、神の御国の栄光を共に見るために。
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4/6 〜大学バスケの季節〜 毎年3月半ばから4月初めは、私の大好きな「NCAA(全米大学)バスケットボール選手権」の季節。“March
Madness”(3月の狂喜)と呼ばれるこの大会は、普段スポーツに興味のない人もスポーツ・ニュースをチェックするという、ちょっとした社会現象だ。私も毎日試合結果をチェックし、好きな大学の試合は観てしまう。90年3月、ハワイに留学していた私の心は、大学バスケに捕えられてしまった。
大学バスケの魅力は何だろう?それは、自分の名誉やお金の為ではなく、「チームの一致と勝利」という目標への「犠牲と情熱」である。一つの目標に向かって仲間と一緒に夢中でプレイしまた応援する。チームとして戦うスポーツの美しさはここにある。しかし、チーム・コンセプトの大切さは「全体の為の犠牲」や「仲間と分かち合う情熱」だけではない。チームとしてまとまっているだけでなく、実際に強いチームには共通した秘訣のようなものがある。それは、「各個人がベストを尽くし、まるで個人種目のように自分自身の戦いに勝利している選手が集まっている」こと。つまり、良いチームになるには、個人スポーツの要素も含まれているということだ。
さて、大学バスケから学んでいることを教会に適用しようとする時、ひとつ大きな問題がある。大学バスケの場合、「名門校」には良い選手が集まってくる。しかし教会はどうだろうか?教会にはあらゆる背景をもった、あらゆる性格の人々がやって来る。年齢も趣味もタイプも違う。そして何より、全員に「自我」という大問題がある。そんな私達に、最初から「教会のため、他者のために自分を捨て、全てを犠牲にする」覚悟はあるだろうか?…しーん…。
しかし、大学バスケのコーチ達はもっと大切なことを知っている。「どんなに優れた選手が集まっても、チーム全員が一つの同じ目標を共有しなくては決して成功しない。」これだ。PJCにも全ての教会にも、「全員が共有する一つの目標」があればそれでいい。大学バスケは「優勝」や「学校の名誉」を目指す。私達はは何を目指す?人生の祝福?教会が知られること?人々と仲良くなること?楽しい教会生活?自分が生かされること?…それらは全て悪い事ではない。しかし、どれも私のいのちと人生の全てをかけるだけの価値、大切なものを犠牲にするほどの価値はない。教会というチームの全員が犠牲を払うほどのことではない。
あなたは、いのちを捧げても惜しくない目標を持っているか?残りの人生かけても惜しくないもの、大切なものを犠牲にしてでも得る価値のあるもの…?何があなたを動かしているのか?日々あなたに動機を与え、エネルギーを与えているものは何か?あなたの人生といのちは、どこに向かっていくのか?あなたの目標にはどの位の価値があるのか?…かつての私は、「とにかく今楽しければいい」と、バスケ、ロック、流行の遊びに多くの時間とお金と心を使ってしまった。しかし今は、「永遠の価値のないもの」の為に、自分のいのちと時間と人生とプライドと心と家族…私にとって大切なものを犠牲にする気は全くない!
私にとって、何を捧げても惜しくないお方はイエス・キリストだけ。このお方の為ならば、捧げても捧げ過ぎるものはない。本当にイエス様と出会う人は誰でも、「いのちと人生を捧げる」以下の答えでは満足できなくなる。それは、イエス様が私の為に何を捨て、何を成し遂げて下さったかを知るからだ。
私の夢は、「教会というチームが大学バスケのチーム以上のチームになること」。一本のシュートを決めるため、一つのボールを追いかけ、一人のコーチに従い、一つの情熱を分かち合い、勝利を目指す。チームの勝利の為に、各選手が自分の戦いに打ち勝つ。この世のスポーツに情熱を燃やす若者がいるなら、私達が神様の御国とイエス様の栄光の為に燃えないはずがない!チームメンバー全員の心がイエス様の愛に捕えられる時、私達は一緒にどこまでも成長できるし一致できる。あらゆる相違を乗り越えることができる。
私の戦いは、この夢の実現の為に皆さんを鼓舞することではない。それは、自分自身の自我に死に、キリストに生きることにより、本物のチームプレイヤーになることだ。イエス様が私のような罪人を取り戻す為に、天の栄光を捨て、私の恥と苦しみを負い、ご自身のいのちと引き換えに私を救って下さった。私は今、主イエス様と彼のチームの為にここに生かされている。選択肢は多くはない。召された道に歩むか、拒んで自分の願いを追求するか。あなたはどうだろうか?
(奇しくも今夜は、大学バスケの“Final
Four”(4強による準決勝戦)。今この瞬間、CBSで放映されているのだが、私は近所のコーヒーショップでこの文章を打っている…。今でも大学バスケは大好きだが、しかしもう捕われてはいない。主よ。私を自由にして下さったことを感謝します!(でもビデオはちゃんと録っている。)
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3/30 〜母教会の閉鎖に思う〜 本日3月30日の礼拝を最後に、私の母教会である広島南伝道所は閉鎖した。(この週報を読む頃、日本は日曜の夜。)この残念な知らせを聞いたのは約2ヶ月前だった。初めはピンとこなかったが、段々それが何を意味しているのかが分かってきた時、心の中に言葉にならない寂しさと無念さを感じた。
「どうしてこんなことになったのだろう?」「ここに来るまで何とかならなかったのか?!」「教団は何をしていたんだ?」など、様々な不平不満や文句が湧いてきた。「誰かのせいにしたい」という願望があったのだろうか。責任の所在をハッキリさせることで、少しでも心の痛みを軽くしたかったのかもしれない。しかし、そんなことしたところで問題が解決するわけでも、閉鎖を踏み留めることはできない。私が広島に帰って、潰れかけている教会を建て直す事が出来るわけでもないのに、外野から文句ばかり言うのは愚かなことだ。そうわかっていても、“What
if, what if…”(もしこうだったら、ああだったら・・・)という思いが頭の中を巡る。しかし、冷たい現実は目の前にある。これから南伝道所の牧師一家や兄弟姉妹たちは、どうすれば良いのだろうか?
「神様を信じ、御言葉を信じ、イエス・キリストを信じて、過去を感謝し、現在を直視し、未来を期待しましょう。」と、南伝道所の皆さんに宛てた手紙に書いた。神様の恵みのゆえに、私はこの小さな教会で幼少期を過ごし、やがて救われ、妻との出会いと結婚に導かれ、牧師と皆さんに祈られ、支えられてきた。そしていつの間にか、帰国の度に御言葉を伝える者として迎えられ、教会の祝福の為に用いられるようになった。今の私があるのは、この教会があったから。私と私の家族との思い出がつまった教会。多くの人々の祈りと犠牲の上に建てられた教会。故郷の教会。・・・母教会が地上から無くなる。・・・この悲しい現実を直視しよう。これまで与えられてきた神様の恵みと憐れみを感謝しつつ、この教会が地上から消え去るからこそ、これから先の将来に向かって、「永遠に無くならない栄光の教会」のために自分自身と家族を捧げよう。キリストのからだなる教会(エペソ1:23)に仕えていこう。変わらない真実さによって、常に新しいことをしておられる主についていこう。
「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。」イザヤ43:19
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3/23 〜もうひとつの「死と生」〜 私が高校生の時に出会った、ある牧師の言葉。「早く死んで、イエス様のところに生きたいよ。」当時の私には、その気持ちがよくわからなかった。今の私には、この言葉は2つの意味をもって迫ってくる。
まず、この肉体がやがて滅び、魂がこの世から解放されて神様の御国へと入れられ、イエス様の側で永遠に過ごすことができるという素晴らしい約束は、私にとって究極の希望である。ただし、それは「神様の御心の時」までは起こらない。私がどんなに天国を願っても、その時が来るまでは地上生涯を苦しみながら最後まで歩まねばならない。
しかしもう一つの意味は、「肉体の死」ではなく「自我の死」だ。頑固でプライドの高い私の自我が「自分の十字架」(マルコ8:34)につけられて死ぬこと。一度きりではなく日々(ルカ22:23)十字架を負って主イエス様に従っていくこと。その時に、よみがえりのキリストと共に生きる者とされる(ローマ6:8)。私の内側に起こるべき「自我の死とキリストの生」こそ、神様の御心なのだから、願えば必ず聞き入れられる!感謝しつつ、確信をもって祈る。「主よ。私が速やかに、またいつも自我に死に、キリストに生きる者とされますように。」
「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」ピリピ1:21
「私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」ガラテヤ2:20
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3/16 〜誘惑に対する勝利〜 皆誰しも、何らかの誘惑に遭うことがあるだろう。そして負けてしまった体験があると思う。またそれは過去のことではなく、今、現在進行形で負け続けている人がいるかもしれない。しかし私達は、「イエス・キリストに似た者と変えられる」約束を神様から頂いている。ならば、イエス様がどのように誘惑に勝利されたかに注目するべきではないだろうか。
先週の礼拝メッセージで学んだように、イエス様が遭われた地上最大の誘惑は「ゲッセマネの園」で起こった。主は血のような汗を流しながら、人間的には「情けない!」と言いたくなるような姿をさらけ出し、「父よ!できれば、この杯を取り去ってください!」と3回も祈られた。人間イエス様は、苦しみの杯に対して弱く、敗北は目の前にあった。イエス様だからといって、決して楽勝ではなかった。しかし、私達は彼が完全な勝利を遂げられたことを知っている。イエス様の勝利の秘訣は?@父の前で正直な姿をさらけ出した。A父のみこころを自分の願いよりも優先した。B全てを「祈り」によって父に持って行った。
祈り終えたイエス様は、自ら十字架に向かって行かれた。「イエスは自分の身に起ころうとする全ての事を知っておられたので、出て来て『誰を捜すのか』と彼らに言われた。彼らは『ナザレ人イエスを』と答えた。イエスは彼らに『それはわたしです』と言われた」(ヨハネ18:4-5)。さあ、神の子とされた「あなた」よ!イエス様のように、いつ、どんな時でも、父なる神様の前に正直に歩もう。自分の願いや自己満足ではなく、父の喜ばれる御心を求めよう。誘惑が目の前にある時、苦しみを恐れる時、犠牲が求められる時、自分を可愛がりたくなる時こそ、父の前にひれ伏して祈ろう。「イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。イエスは祈り終わって立ち上がり…」(ルカ22:44)。
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3/9 〜祈りと謙遜〜 「祈らないのは傲慢の証拠。」この真理をこれまで何度、思い知らされてきただろうか。心の中で自分に言い聞かせてきただろうか。いつも最後に来るところは同じ。「祈れ、祈れ、祈れ…もっと祈れ。それしか道はないじゃないか。」と頭ではわかっているのに、気がついたら、また自分でがんばって何か結果を出そうとしている。そんな時は、決して祈ってない。祈っているように見えても、心からの本当の祈りではない。心が神様の前に立っている。砕かれてない。しっかりと「自分の意志」というものを維持し、決して「白紙状態」になれない。本当は無力であることを認めない。…ああ!こんなこと続けていたら、自分で自分を苦しめるだけなのに…っていう繰り返し。
一番良いことは、少しでも早いうちに白旗をあげて、降参してしまうこと。全能の神様の前に降参し、自分自身にあきらめ(自己卑下とは違う)をつけ、「私は何もできません。だから、どうか助けてください!」と叫んだ方が良い。自分ではなく神様に頼る時、いつも最善の答えに導かれる。これは間違いない。
教会の働き、説教準備、人の必要に答える時、家庭生活、自分のやるべき事などなど…人生のありとあらゆる事に関して、いつも、まず神様の前に出よう。自分の傲慢さと愚かさを悔い改め、心と魂の底から幼子のようになり、力強いお父さんに全てを期待し、頼りきって祈る者となりたい。その為には、主よ、いつも私の目を開き、私の罪深さと愚かさを見せて下さい。「どうか、隠れている私の罪をお赦し下さい。あなたのしもべを、傲慢の罪から守ってください。それらが私を支配しませんように。…私の口の言葉と、私の心の思いとが御前に、受け入れられますように。わが岩、わが贖い主、主よ。」(詩篇19:12-14) アーメン。
神様は、御心にかなった正しい祈りは絶対に聞いて下さる。確信し、感謝します。
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<L.B.カウマン「山頂を目指して」2月12日分より>
「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。」エペソ6:10
あえて異なった者となりなさい!あえて一人で立ちなさい!たとえ他の多くの人々が別の道を歩むとしても、あえてあなたの確信に従って立ち上がりなさい。 キリスト者クリスチャンにとって決定的な要素は、ある偉人がこう考えているとか、他の全ての人がこう言っているとか、ああしているとかいう事ではない。私達の救い主であるイエス・キリストは、私達に何をさせようと望んでおられるかという事である。 キリスト者は、全ての決断をするに当たって、次の2点を考慮しなければならない。
1.この事は、私を今までよりも更にキリストに近づけるだろうか?(もしそうでないなら、それは私の生活から排除すべきである。)
2.それは、私が他の人々の魂をキリストに獲得する(救いに導く)のを助けるであろうか?(他の人々にとって障害となり、あるいはつまずきとなる可能性のあるものは、全て取り除かなければならない。)
現代の安楽な英雄崇拝の時代において、十字架を負うキリスト教は必要である。イエス・キリストは、キリスト者達にこう言っておられる。「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と。 この十字架を負うという事を誤解しないで頂きたい。十字架を負うという事は、自分自身の頑固な意志によって自分の為の苦しみを作り出す事ではない。単に迫害の対象となる為に、自分自身を嫌われ者とする事ではない。そうではなくて、十字架は私達の生活の中に神の御心が行われる為に、私達がしばしば払わなければならない価なのである。今日のキリスト者が、あえて他の人々と異なった人間になり、イエス・キリストの足跡に従おうとするならば、時としてそのような価を支払わなければならない。私達の救い主また主であられるイエス・キリストは、十字架の上で私達のために死なれた。それは、私達の心が御血潮によって清められる為であった。私達はキリストにおいてのみ、永遠の栄光の目的地に到達する事ができるのである。
キリスト者よ。キリストの為に、あえて他の人々から愚か者と見られなさい!あなたの確信に従って、あえて立ち上がりなさい。神の生ける御言葉と御霊の剣という武器をもって、キリストの為に、あえて十字架の戦士となりなさい。あえてあなたの十字架を負いなさい。真の背骨のあるキリスト者となりなさい。神があなたの救い主なるキリストを通して、あなたに与えて下さる力によってだけ、あなたはあえて異なった者となる事ができる。世界は今日、そのような信仰のキリスト者達をこの上なく必要としているのである。(オスカー・C・ハンセン)
「イエスは、ひとりで十字架を負われなければならないのであろうか!?」
2/17 〜本当のチャレンジ(上の文章を受けて)〜
私達の前にあるチャレンジは、「キリストのために、この世と異なる者になる」ことと「キリストを伝えるために、人々と和合して生きること(マルコ9:50)」のバランスだ。
2週間前に述べた通り、最高のバランスは、2つのものの「中間」ではなく「両極端を最高に生きる」ことにあり、それは、「主なる神を前進全霊をもって愛する」ことと「隣人を自分自身のように愛する」ことにある。だが言うは易く、行なうはが難し…。本当のチャレンジは、私達の「自我」があまりにも頑固なので、神を愛することも人を愛することも中途半端で、いつまでも自分を愛する事を選び続けるという悲しい事実だ。「主よ。私を変えて下さい。いつも自分の十字架を負い、必要な時にいつでも自我を張り付けて死ねる者にして下さい。」と本気で祈ろう。今から始めよう。
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2/10 〜「バランス」危険性と重要性A〜 (先週の続き…) では「バランス」は、私たちの人生に不必要な、悪いものなのだろか?決してそうではない。バランスは必要である。しかし大切はことは、その内容だ。私を導いてくださった牧師は、言葉と生き様をもって多くの大切なことを教えてくださった。その中でも「バランス」について言われたことと見せて下さったことを私は
忘れない。「バランスとは、2つのものの中間にあるのではなく、2つのものの両極端を最高に生きることにある。例えば『仕事と家庭のバランス』と言う時、それは両方を少しずついい加減にしたり、適当にすることではなく、両方に精一杯力を注ぎ、自分を没頭させる時に生まれる。」(やじろべえ、綱渡りを考えてみよう)この方は、その言葉通り私の前を歩まれ、背中を見せてくださった。(今も現在形で、そのように歩んでおられる。)
このような生き方は御言葉が語る神様のみこころである。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』」ルカ10:27
ある人は言うだろう。「自分の存在全てを捧げつくして神を愛する?ちょっと行き過ぎじゃない?」「他者を自分のように愛する?一体誰にできるんだ?」「こんなのバランスが悪すぎるよ!」人間の目にはそう映るかもしれない。しかしこれこそが、神様の基準による最高・最善のバランスなのだ。神様のオリジナルプランが全てを語って
くれる。人間は、神のかたちに似せて、神の手によって、神の息が吹き込まれて造られた。それは人間が神と一体となり、神のものとして、神に愛され、神を愛する時に、本来の人として完全な姿となり、満たされる存在だからである。こうして神の愛に満たされた人が、隣人を本当に愛して行く事ができる。極端なまでに神様を愛するところから、人生のバランスは生まれる。
「正しいバランス」を失った物事や人生や人間関係は、やがて壊れまた終るが、「正しいバランス」が回復されるなら、壊れかけているものは修復される。もしあなたが、バランスをとろうとして人の目を恐れたり、何事にも自分を注ぎ込めなかったり、ただ疲れてしまうなら、どこかが間違っている。イエス様は「真のバランス」をこの世に与えるために来られ、神様と私たちの間に立ち、十字架によって平和を与えてくださった。イエス様を信じ、神を愛し、人を愛する。このバランスが最高の人生へと私たちを導いてくれるのだ。
「私達の主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」ローマ5:1
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2/3 〜「バランス」危険性と重要性@〜 イエス様は、果たして「バランスの良い人生」を送られただろうか?いやむしろ、今日語られている「バランスのとれた」あり方や人生とは正反対の、「ちょっと行き過ぎた」、「偏った」、「極端な」姿を、イエス様の地上生涯に見るのではないか。(詳しくは来週…)
なぜ私達はバランスをとろうとするのか?もちろん、それが良いことだと思うからだろう。しかし実はそこに、次のうちいずれかの隠れた理由があると私は見ている。@人に受け入れてもらいたいから、A自分が「バランスの取れた人間」であり、「客観的に物事が見える人間」だと自負したいから、B何かを失うことを恐れるから(立場をハッキリせずに、両サイドに足を入れていたい)。…このほかにもあるかもしれない。
この世の人間関係の中で、「キリストの弟子」として私達は歩むのだという事を忘れないでいよう。目の前にいくつかの選択肢があり決断を迫られている時、バランスを気にしないようにしよう。「自分の心か?神様の御心か?」神の国と人の国の「ちょうど中間のほど良いバランス」は、神様が喜ばれることではない。イエス様のようにバランスは悪く見えても、「神様と人を愛しつくす人生」こそ、神様の栄光を表し、人を生かすものなのだ。
「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。」 マルコ8:35
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1/27 〜たった一人〜 先日「第一歴代誌21:1−8」を読み、ダビデ王がイスラエルの民の「数」を誇り、部下の制止を振り切ってまで数えさせ、その結果、神様の怒りを引き起こしたという出来事を見た。その時、私自身について気になることが示され、神様から語られた。
最近、週報に「先週の集会報告」として各集会の出席数を載せている。始めた理由は、@PJCメンバー全員が各集会に興味と重荷を持って祈るため、A日曜以外にも多くの人々がPJCを通して神様に触れられていることを知ってもらうため、だった。しかし、少しずつ自分の中で「ある思い」を抱くようになっていった。「ああ…先週はこれだけだった…」「おっ!今週は増えたぞ!」そう。「数」を気にして、それによって心が浮き沈みすることが起こってきた。(数字に弱い割には気にする…変な奴。)
私は、教会の目標として礼拝出席者や信仰告白・洗礼者の「数」を挙げ、目指すことそのものが「間違い」だとは思わない。むしろ、それが本当に神様から与えられた目標ならば、大いに祈り求めるべきだと信じる。本来、神様の願いは「一人も滅びることなく」であり、常に100%なのだから。しかし、どの時点で問題になるかというと、私の心が数字に「捕らわれて」しまい、本当に大切な「ひとりの人」の魂の救い、癒し、リバイバルのために、私や教会のエネルギーと時間が正しく、効果的に、集中的に用いられなくなる時だ。
そもそも数はどうであれ、私が神様の前に果たすべき「自分の分」は同じではないか!目の前にいる人が1人であれ、10人であれ、100人であれ、1000人であれ 、私がなすべきことはただ一つ、「神様をお伝えする」という使命を果たすこと。しかし、目の前にいる一人の為に、自分を捧げ尽くして、神様の愛をお伝えすることが出来ないならば、他の誰に対しても、大会衆に向かっても、神様を伝えることが出来ない。そう思う。
「…その人は99匹を野原に残して、いなくなった1匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。」 ルカ15:4
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